設計スタッフの徒然話

最後の早慶戦

こんばんは。CS課です。

おとといに引き続き野球のお話です。
昨日、東京六大学野球秋季リーグで早稲田大学が優勝を決めました。
早稲田大学の皆さん、おめでとうございます。

私は東都大学野球リーグに所属している某大学出身なので、早稲田大学とは何の関係もありません。
そんな早稲田に無関係な私でも「野球」「早稲田」「六大学」というキーワードが出れば、「早慶戦」を連想します。

そして歴史好き(また昔の話ですみません。)の私としては、「最後の早慶戦」を連想してしまいます。
最後の・・??まだ今後も早慶戦は続きますから、早慶戦が終わってしまうわけではありません。

話はさかのぼること63年前。昭和18年9月。日本は米英蘭中との大東亜戦争の真っ最中でした。
当時は20歳になる男子はすべて徴兵検査を受け、兵役が義務付けられていました。

つまり20歳になるとみんな戦争に行くわけです。但し、学生だけは例外で、卒業するまでは兵役が猶予されていました。
それが戦局の悪化に伴い兵役猶予が撤廃され、20歳以上の学生も戦争に行く事になりました。

六大学野球リーグは敵性スポーツという事で、すでに昭和17年の秋季リーグを最後に解散させられていました。
そんな中、学生達のあいだから「戦争に行って死ぬ前に、もう一度早慶戦をやりたい!」という声が上がりました。

入営を目前に控えていましたが、早稲田・慶應両校関係者の尽力により、
昭和18年の今日、10月16日に戸塚球場において両校によって練習試合が行なわれました。

俗に言う「最後の早慶戦」です。当時は「早慶戦」といえば、大変な人気でしたから、
戦時中にもかかわらず超満員の7000人が見にきたそうです。
(こんなところを爆撃されたら大量虐殺ですから、軍部は大変渋い顔をしたそうです。)

この試合は勝敗は問題ではなく、ただひたすらに「野球がやりたい!」という思いだけでプレーをしたと思います。
当時の大学生も今の大学生とそんなに変わらない考えを持っていたはずですから、
みんな「戦争になんか行かずに野球をやっていたい。」と思ったはずです。
ただ時代がそれを許さず、彼らは黙ってバットを銃に持ち替えて、潔く戦場へと旅立ちました。

この日出場した選手のうち、「生きて帰って、もう一度野球をやりたい!」という願いも空しく、4人の尊い命が戦場に散りました。

あれから63年経った今年の夏は「ハンカチ王子」が活躍しました。
彼も来年から早稲田大学の一員として「早慶戦」を戦うわけですが、
63年前に同じ早稲田の学生達がどういう気持ちで「早慶戦」を戦ったかを知っておいてほしいものです。

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